ある日どこかで☆バンコクの空を見上げながら

東南アジアの片隅で空を見上げて過ごしています。

体調不良

昨日の夕方頃から体調がイマイチで、今朝はお出掛けしたものの、めまいがひどくて倒れそうになり、予定を途中でキャンセルして帰宅してしまった・・・

 

うーん、一時帰国中の出来事をブログに書いて気持ちの整理をしていたつもりが、逆効果だったかな!?辛かった気持ちがフラッシュバックしてきて、ちょっと抱えきれなくなっている感じ。マズイなあ。心的ストレスが体調不良という形でSOSを出している状態で、これは経験的によくない兆候・・・

 

こういう時、夫と結婚した当初から、義母と義弟から受ける精神的なプレッシャーは相当なものだったなあと、当時のつらい気持ちがこみあげてきて、今でも泣きそうになる。というか、涙があふれてくるので、実際泣いているのだけれど。もちろん、今も昔も相手はそんなつもりはなく、自分達が私を追い詰めているとは思ってもいない。

 

結婚して夫の実家の隣に住むようになってからは、義母の目を気にして実家に帰ることさえ我慢するようになり、義母と義弟から受ける理不尽な嫌味や冷たい言動を見て見ぬふりをして一人で抱え込んでしまった結果、生理が止まり、ストレスから蕁麻疹が出るようになった。

 

ふとした時に、突然意味もなく涙があふれ、食欲もなく瘦せていった。追い詰められていた状況の中、生理が止まるのも当然の結果だったように思う。

自分の体調を気遣う精神的な余裕も、自分のために病院に行こうという元気もなかった。若かったし。

 

ある日、このままでは死んでしまうと思い、大げさに聞こえるかもしれないけれど、あの当時の自分としては決死の覚悟で実家に帰った。どうやって帰ったかも覚えていないくらい。それくらい切羽詰まっていたし、突発的な行動だったように思う。実家に帰るのはずいぶん久しぶりだった。


母は娘のただならぬ雰囲気に気付いていたと思うけれど、何も聞かず、いつものように接してくれて、美味しいご飯を作ってくれて、食べていると涙がポロポロ流れて、それからは、それこそ子供のようにワンワン泣いた。堰を切ったようにとは、まさにあんな状態だろうというくらい、あとからあとから涙があふれた。

 

あの日、母にはずいぶん心配を掛けたと思う。それでも、母は何も聞かなかったし、私も話さなかった。

 

病院の先生には、「原因から離れたほうが良い。根本的な解決はそれしかないですよ。」と優しく、しかしハッキリと何度も言われていたので、隣に顔を出す回数も減っていった。私を可愛がってくれていた亡き義父は寂しそうに、「一人でいても仕方ないのだから(夫はいつも帰宅が遅かったので)、いつでもこっちに来ればいいんだ。」といつも声を掛けてくれて、それが心苦しかったし辛かった。義母と義弟のせいで足が遠のいたとは、とても言えなかった。

 

あの頃から今まで、夫との喧嘩の原因の多くは「隣」の義母と義弟のことだったし、これからもそうなのだろう。義母と義弟から受ける精神的なプレッシャーにこれ以上耐えられず、夫と別れようと思ったり、追い詰められて双極性障害の薬を病院で処方されたり、ストレスから蕁麻疹になったり、もう幾度となく繰り返してきた。

 

日本から離れてバンコクで暮らしていても、やはりダメなのだ。

何かの拍子に思い出し、どうしようもなく悲しくなって、何も手につかなくなってしまう。

 

いつしか足が遠のいて、私が隣に顔を出す回数が少なくなっていったことを、今でも義母と義弟に責められる。行こうと思うと足がすくみ、上手く呼吸ができなくなる発作に襲われていたことを、義母も義弟も知る由もないから仕方ないのかな。

 

「実家にばかり帰る」と嫌味を言われるけれど、それは、「ご飯を食べにいらっしゃい。」「〇〇を買ってきたから取りにいらっしゃい。」と、両親が声を掛けてくれるから行くのであり、実際に、義母が声を掛けてくれた時は有難く隣に行っていたし、それを断って、断固行かないということはなかった。ただ、義母がそうやって言ってくれた回数が、極端に少なかっただけ。向こうから声を掛けてくれた時は、「行ってもいいんだ」と言う気持ちが無意識に働くからか、発作が起こることも少なかった。

 

こうやって書いている間も、何度も心が折れて、この記事を一日で書き上げることができなかった・・・やっぱりダメだなあ。辛い。。。でも、克服しないと💧